最近の「いじめ」問題を考える

本日の日記、第二弾。





最近、いじめの問題がニュースを賑わせている。





多くの人は「学校側」の教育のあり方を問題視し、次から次へと小中学生の自殺が起こるたびに、学校側も謝罪をしている。



何か、学校側だけが悪者になっているような気がする。







自分が小学校の頃にも、当たり前のようにいじめは存在していたが、いじめが原因で自殺したなんてニュースは聞いたこともない。



これは自分の地域に限ることかもしれないが、大抵の親同士は何かしらつながりがありお互いの家庭環境も理解しあえていたので、度を越すようないじめには発展していなかった。



実に、いじめている方の親と、いじめられている方の親同士が仲が良いなんていう不思議なこともある。



何となく地域のコミュニティというものが、そういうものを助け合うような、自然発生的なものがそこには存在していた。





それが、親の教育方針なんだろうけど地元の公立ではなく、私立への進学をすることで、お互いが入学して初めて会うような希薄な環境へ、子供ながら身をおかれたり、当然親同士の親密さも地元密着より薄くなる。



また、小学生の子供がいる上司から聞いた話だと、お金持ちの子の集団にいると、ブランド品を身につけていないだけでも、いじめにあうそう。親のエゴで無理して不自然な環境に入れても、その環境での友人との交流まで気にする親はあんまりいないんだろう。



一方、地元に密着していても、子供が塾やら、ゲームやらで、それぞれが孤立しているんじゃないかな。地元の野球チームが次々と小学生が足りずに減っていっているらしい。少子化で子供の数が減ったとはいえ、マンションが次から次へと建っているので、トータルの数は減っていないのに。



まして、塾やゲームで地域のコミュニティに参加していない子にしても、家庭内では密接ではないと思う。今は共働きとか、残業過多なんかで、家族揃って夕飯とっている話なんて、周りの人から聞いたこともない。





何かのブログで見たけど、こういういじめによる自殺や、幼い子供が虐待され殺される事件が発生するのは、自然発生的な人口調整のメカニズムが働いているという説もあるという。過去の日本には人口増加での食料難を避けるための「間引き」があったものと同様だそうだ。



さすがに間引きと一緒というのは大袈裟だが、人口が密集している首都圏においては、そういうバランスが崩れているというのは、うなづける。



人口が増えると商店街がなくなり、いつでも物が買えるコンビニが、乱立しだす。これは、大人にしても子供にしてもそうだが、何時でも食べ物が買える環境になったからこそ、家では食事をしなくなる。19時に商店街の店がしまり、コンビニも、ファーストフードもファミレスもコンビニもなければ、家に帰って食べるしかない。



今は、個性の時代とはいうが、塾やゲーム、家でも1人で食事など、孤立することが多いのであれば、集団に属する時には、逆に子供ながら大衆性を求めるような気もする。



この前のいじめのアンケートでは、「いじめられる方が悪い」という回答が60%だったそう。これこそ大衆化の考えが浸透しており、道徳観が欠如しているかのように思える。今朝のテレビで亀田兄弟の父が言っていたが、「自分らもマスコミからあれだけ批判されて、いじめと同じもの」だと。メディアは視聴率というものがあるので、出来るだけ多くの人が共感する内容を放送するのであり、その大衆をあおってバッシングするのだから、この発言には納得できる。



そんなメディアがいじめを「問題」として取り扱うのは、不思議に思える。





世間の風潮と収めるには簡単なことではあるが、いづれは自分も子供を持ち親としての役割を担うことになるので、真剣に考える義務がある。



今のところ、こんな希薄さが漂い大衆化する世の中で、このような問題を解決できるのは、国でもなく学校でもなく、コミュニティを重んじる姿勢と、大衆に埋もれず価値観をしっかりと持てるような「教育」が出来る、親としての行動しかないように思うところだ。