生きる意味って何だ?
ナチスの強制収容所に送り込まれたことのある精神学医であるV・E・フランクルの著書『意味への意志』を読む。
意味への意志
ヴィクトール・E. フランクル (著), Viktor E. Frankl (原著), 山田 邦男 (翻訳)
『夜と霧』においては、人間は絶望的な状況であっても自分らしく生きることのできるという「意志」の強さを記したもの。
本書は著者が第二次世界大戦後に行った講演の様子を書き留めたものであるが、当時もやはり生きることの意味がわからないという人が多かったという。
戦争の功罪は、人間を人としてみず、目的に対する手段とみなしたことという。
つまり工場での労働として扱い、ナチスは人を実験の対象としてまでも扱っていること。
1つの歯車となることで、その行為には意味は存在しえない。
1人の人間が倒れても、別の人を立てれば歯車としてきちんと回るからだ。
これは、現代社会にも当てはまる。
特に就職したての若者は、そこで働くことの意味を問う。
当然のことながら、歯車として扱われるよりか、人間として扱われるほうを好む。
ただ、人間として扱われたとしても、その心は埋められない。
何のために働いているのか、何のために生きているかの「意味」が見出せないからだ。
本書によると、「意味」というのは「責任」を持つことで初めて見えてくるものだという。
仕事における責任。家庭に対する責任。社会に対する責任。
それらの「責任」を自らに課すことにより、はじめて「意味」が見えてくる。
そして、その「意味」のために活動する「意志」こそが人間らしい活動となるんだろう。
また、人は窮地に追い込まれたときにも「意味」を見出すという。
避けることが出来ない出来事に遭遇した時に取る心構えと態度なんだとか。
つまりのことは、安定した生活にどっぷりと浸かるところに意味は見出しにくいというところだろうか。
楽しさを追求したところで、それは麻薬などと同じような一時的な快楽に過ぎない。
むしろ想像力が必要となる逆境こそが、人間的に「意味」のある生活となるんだろう。
人生には多くの選択肢がある。
そこで「苦しい」方を選んだほうが「意味」のある人生を送ることが出来るのではないだろうか。
「無難」に生きるということは、社会のしきたりに合わせること。
だから「意味」がなくなるんだろうな。
自分の人生を選択する上で、とても参考になる。