改革の時『ジャーナリズム崩壊』

ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書)

ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書)

テレビのみならず、新聞にも危機が訪れてるんだ。
メディア全体がやられてきている感がするね。


たかが、こういう本が1冊でただけで、危機というのは大げさかもしれないが、能力ないものが権力を握りあぐらをかくと、必ずこの手の異論を唱える人が出てくることは、他の例をみても時代の変革期を表していることがわかる。
例えば、幕末なんてそうだ。徳川幕府が無能になる中、それらに異論を唱えたものたちが統幕を志すようになった。


1企業内という身近な例でもよくあること。
特に、日本全体が急成長した時代に頑張って出世した人たちが権力を握り、あぐらをかきはじめる業界がこの手の危機にさらされる。


不景気の影響を受けると特にそうなる。
なんでそういう人が不景気になると出てくるかというと、個人的な意見ではあるが僅かながら同じ志を持つ人たちへの助け舟のような気がする。
業界そのものが倒れても(大企業が倒産しても)、その企業内では認められなくても世間の目が変われば主役になれる人たちが埋もれてしまわないよう。


本書の著者もその類だと思うし、タイミングよくエントリがあがっていたが佐々木俊尚氏もそうなんだろう。

毎日新聞社内で何が起きているのか(上)


その組織の中にいると自身が世話になっている人にも迷惑がかかる。
坂本竜馬が脱藩して距離を置くことで倒幕の歴史を作ったように、こういうのは権力とは距離を置いた人の方が影響力が強いんだろうね。


ここ最近は不景気が叫ばれつつあり、企業のテレビCM離れが叫ばれていた。広告収入という面では新聞も同じ。
「不景気」「過剰に保守的な姿勢」は、時代の変革を告げる1つのサインといえるだろう。


で、本書の内容は海外と日本のジャーナリズムの違いが明確に記されている。いや、違いを記すというよりも、日本のジャーナリズムのあり方を批判するために海外と比較しているといった方がいいんだろう。



日本の記者は簡単に言うと「出る杭は打たれる」なのでスタンドプレーは命とりであるゆえ、各新聞者から報道される記事は一様。
同じ記事が別の新聞に出ることで自分の記事に間違いがないという理由で安心するらしい。特に皇室関連や大物政治家の発言なんかは間違えることは命とりなんだとか。



一方、海外のジャーナリストは独自のルートを駆使し徹底して取材するため、複数の新聞で記事が被るようなことはほとんどないという。
日本と違うのは記事が被ることはタブーであり、それが判明した場合は即解雇となるという。



ここで面白いのがパクリの疑惑を掛けられた時、身の潔白を証明するための手段として普段からブログを書くのは役に立つという。
自らの方針や考え、そして日々の行動は蓄積することで真実を証明する1つの手段となる。



これは常日頃から思っていることだが、ブログは自分が考えている感情そのものをストレートに表現することがとても大事。
数年間蓄積したものを見てもらうことは、何よりもその人の考えを表すための手段となる。



ジャーナリストを気取るわけではないが、自分が感じたことをそのまま表現することを積み重ねるからこそ、そのブログが面白くなる。
自分は、こうやってプライベートでブログを書いているからいいが、正直仕事で顧客向けに書くブログは文長が丁寧で自分らしくなく気持ち悪い。


で、話は戻るが本書はジャーナリストとなるべき人たちが、世間の慣習や会社の方針に身を委ね自己の考えを示せない文化が崩壊へ向かっていると指摘している。
ブログの表出革命は世界のジャーナリズムを変えたと言われているが、日本国内においてはプロの人たちが会社とは離れ、個人として発信しない限り、ジャーナリズムを変えたとはいえない。

そういう人達がブログで発言しだすと、ウェブも面白くなっていくんだろうね。


自分もそうだが素人が頑張って書いても書評レベルの感想文だからね。素人が書いて意義あるのは、それらを集約させた「口コミ」くらいだから、素人1個人が持つ専門性はあんまり人の役に立たないのかもなんて思ってしまう。


ちなみに、佐々木俊尚氏が「ネット未来地図レポート」という内容を有料のメルマガでやるという。

これは違和感大だ。

中身をみないと何ともいえないが、ネットに無料でこういうプロの方の文章が発信される未来はこないんだろうか。
結局ウェブは無料でさわりだけを広く配信するための広告ツールというのが限界なのかもとも勝手ながら推測してしまうよね。