知識を得るためには「経験」か?「学習」か?
スキルアップについて考えることが多い。
どうすれば、自分自身を伸ばせるか人に聞くと、ある人は経験が大事だというが、ある人は学習することの大切さを説く。
これには、どちらかに偏るかは人によって癖が出ることと思う。基本的に自分は学習したことを経験するという、学習の方が僅かながら比率が高い。ただし、それが正しいとは思っていない。癖としてそうなっているだけ。
どうすればよいのかという疑問は常日頃から持っていた。
そして、それを若干ながら解決するヒントが。
まず、知識を得るためのプロセスは4種類あるという。
1.暗黙知→暗黙知
2.暗黙知→形式知
3.形式知→形式知
4.形式知→暗黙知
この1の「暗黙知→暗黙知」というのは、技能工や寿司屋などの、師匠と弟子の知の伝承にあたる。そこには、マニュアルなど存在しない。「肌で覚える」ことが必要だが、それまでに要する時間は何十年とかかる。
そして、2の「暗黙知→形式知」。これは、評論的観測。この後に自らの暗黙知に置き換えないと、小学生の社会化見学と変わらないような気がする。意外とこういう人は多いんじゃないかな。
3の「形式知→形式知」。これは、読書がそう。論理的に体系だてられたものを論理的に理解する。資格取得なんかもこれ。理解したつもりになっても実践に使えるかどうかは疑問。実践につなげないと全く役に立たない。
最後に、4の「形式知→暗黙知」。これは、マニュアルなどを読みながら実践したり、本を読んで影響を受けたことから行動を起こすこと。
これを見て、思ったことは、まずこの「暗黙知」と「形式知」という、2種類の知識というものを履き違えているものが多いなと。
例えば、2007年問題。多くの技能工が定年退職してしまうこの問題の解決策として「eラーニング」をあげる動きがある。映像を残してとはいうが、その場の呼吸や集中力は同じ空気を吸わなければ理解は出来ない。
「eラーニング」で学べるものは、形式知のみ(マニュアル類も同様)。
逆に法令なんていう形式知的なものは、暗黙知では理解できないんだろう。資格取得や学校教育が使えないといわれるのは、一語一句を性格に記述することが求められる形式知であって、暗黙知が重視されるビジネスの世界では役にはたたない。
そして、これは人を教育するということを考えても大事なもの。
仕事のための研修であれば、それが「形式知」で留まらず「暗黙知」へつながるストーリーが出来ているか。または、その研修自体が「暗黙知」を学べるものかということがいえる。
企業での活動で、起案者がその企業から研修成果を求められるケースが多いと、どうしても研修は成果の見えやすい「形式知」へ偏ってしまう。でも、スキルアップに役立つことは「暗黙知」を取得すること。
レポートが上手く書けたら成果があるという、間違った評価基準がはびこっているように思える。
一方、「暗黙知」の大切さを書いてきたが、「形式知」もとても大切。「形式知」は人に物事を伝えやすく、理解の助けになる。どうしても「暗黙知」では伝えられない部分をサポートする。
ゲームの操作マニュアルなんて、そうだろう。操作方法もわからずゲームやっても非効率。マニュアルを若干でも読むことで、その面白さが増すもの。
ただゲームなどならわかりやすいが、この「暗黙知」を伝えるためには、メタファーを上手く使い、形式知に置き換える能力が必要となる。最近、ナラティブメソッドやブログなどがトレンドなのも、暗黙知を出来るだけ暗黙知に近い形で、言葉として表現できるからだろう。
いづれにせよ、知識というのは最終的に「暗黙知」として実践することで、はじめて見に付くもの。そのためのプロセスをいかに効率化するかは人それぞれだが、「形式知」が助けとなってくれる。
その助けとなる「形式知」で全てと思うことが一番危険。必ず経験することが必要となる。
こうしてみると、経験が大事という人の言い分も、学習が大事だという人の言い分も共に理解できるものだ。