自分らしく生きる

日々生活することの目的は何か?



現代思想の観点からいうと、それは「幸せになるための営み」といえよう。



自分の中の幸せ。

それが、明確であればあるほど、その目標に対して具体的に行動でき、人生が充実していく。



人生における行動の中で、自分の理想とする最終的な幸せに向けた行動がとても大切になる。



時には、ふとした瞬間に「幸せだなぁ」と感じることもある。精神をリフレッシュしたり安定させたりするのに、それも必要だが、刹那的な感覚に過ぎない。



その一瞬の喜びを継続することは、人には慣れというものがあるので、相当大変なことだ。また、自分一人の幸せでは飽き足らず、人と幸せを共有したり、他社に幸せを与えたり。それをするには相当の鍛錬や下積みが必要だ。



だからこそ、将来の夢に向かって勉強したり、一生懸命仕事したりするんだと思う。



それを妨げるものに「娯楽」というものがある。



「娯楽」の定義は、簡単にいうと、その行為が将来につながらないものだ。

だから、漫才1つ見るにしても、将来漫才師を目指す人にとっては、それは娯楽ではなくなる。一方、どんなに読書しても、それが将来の役に何にも立たなければ、単なる娯楽に過ぎなくなることもありえる。



もしかしたら、これが仕事と趣味(≒娯楽)の境目になるかもしれない。

趣味を仕事にと夢見て就職しても、その仕事が将来のためだと考えはじめると、それは趣味ではなくなる。趣味を趣味のままにしたいのであれば、それはその場限りの楽しみとしなければならない。



娯楽は楽しいが、将来にはつながらない。

仕事や勉強は辛いが、それを乗り越えることで幸せになれると信じられる。



この考えをすり返る言葉が「自分らしさ」という言葉だと感じる。

何となく「自分らしさ」というのは、趣味をベースとしたアイデンティティのように感じる(それが悪いわけではないけど、こういう理論を考え出すと都合の良い言葉だなぁと感じる)。



ちょっとストイックかもしれないけれども、娯楽というのは将来に対する取り組みで使い果たした力を充電するためのものであって、それだけで人生まかり通るとは思わない。



ただ、その努力の結果得たものは、「南国での生活」や「船で世界一周」など、リタイア時に娯楽だけで残りの人生を後れるようなものに向く傾向が強い。



だから、みんなの考えるような幸せって、その娯楽生活へのスイッチングの時期を出来るだけ早めることなのかと思う。



辛い仕事をしていても、ある日に莫大な財産を手に入れてしまえば、同じことをやってもそれが娯楽になるかも知れない。



グッドウィルの折口さんは、娯楽にしてはいけない介護という人の命を預かる仕事を娯楽にしてしまった。だから批判されるんだろう。仕事によっては、娯楽でやってはいけない仕事もある。一方、ワタミの渡邊美樹さんは、介護に対する思いをしっかりと持っているので、筋が通っていると感じるね。





で、何となく、自分で書きながら理解してきたことだけど、娯楽か娯楽でないかは、意識的な問題なんだなと。趣味を中心とした「自分らしく生きる」のであれば、将来食いっぱぐれることは、リスクとして感じていながらも意識してはいけないんだろう。



それでもって、今週号のSPAによると「仕事中はうつで、週末アクティブ」というネオうつの特集を行っている。



このブログの勝手な理論によると、それは仕事自体が週末遊ぶためのものであったり、自己の幸せを実現するためのものではなく、無職でいるよりも何かしら仕事をしていた方が良いという、リスクヘッジに過ぎない。



自分の中での「幸せ」を定義し、それに向けてやるべきことを日々行うことで、その「ネオうつ」も解消されるんだろうに。



ここ最近は、ポータブルゲームやワンセグなど、ちょっとした隙間時間にも、娯楽が入り込んできている。また、携帯電話の発達により、時間や場所に制限されずに他人と会話もできる。



このように娯楽が発達してきた中、将来への取り組みを行う時間も意識しないと、必然的に減少してくる。



そんな状況の切り札が「自分らしく生きる」ことと考えているのであれば、それは危険なような気がしてならない。



将来を幸せに生きるという目標の中、それにつなげるための生活で充実することが大切なのではないだろうか。



目標に向けた行動理念こそが、「自分らしさ」を作りあげる気がしてならない。