自我を捨てるとは?
「自我を捨てる」とは、どういうことなのだろうか?
「ありのままを受け入れる」ということなのか?
『ブッダの道の歩き方』の中で、アルボムッレ・スマナサーラ氏と立松和平氏の対談にてその話題が出てくる。
自分自身に問いただしてみて欲しい。
自分の母親が寝たきりになったときに、お風呂に入れてあげたり、オムツを取り替えてあげたりできるのだろうか?
そこで思うことは、「恥ずかしい」「格好悪い」「気まずい」など、様々な感情が出てくる。その感情こそが自我だという。
それを受け入れて、目の前にあるものと時間を共有することこそが大切だとスマナサーラ氏はいう。
これは、周りに居る人だけではなく、本人にも通じる。『末期がんになったIT社長からの手紙』の藤田氏の行動は正にそれである。彼は、死を受け入れ、死までの時間に何が出来るかを考え行動した。
感情はとても大切なものだが、時には邪魔になる時もあるんだと気づかされた。
良い感情もあれば、悪い感情もある。悪い感情とは「欲」とか「無意味なプライド」とか。
人に欲がなかったらどうなってるんだろうか?
無意味な自然破壊や公害、乱獲なんかはおこらず、自然は美しいまま保たれていたかもしれない。でも、それだと文明は今のように発達しておらず、未だに木と木をこすり合わせて火をおこしていたかもしれない。
じゃあ、どう判断すればいいだろうか?
仏教には「中道」という考えがあるという。
これは「真ん中の道」という意味ではないという。両端の「間違った道」の真ん中であっても、間違ったものと間違ったものを半分にしただけで、それは正しい道ではないらしい。
それとは、全く別にある、人間の欲にとらわれない第三の道が「中道」だという。
その「中道」を進んでいれば、何に対しても良い結果になるという。
マーケティングを学ぶ傍ら、こういうことに触れたことは、大きい。
マーケティングは人の欲を喚起させるもの。いわば、人の欲を助長する行動だ。そして、その助長の結果として莫大な利益が生まれるという提供する側の欲も絡み、欲と欲のぶつかり合いになることもある。
確かに、そこの「真ん中」をとっても、結局は欲のバランスを取っただけで、欲が完全になくなることはない。
今日、企業においては、社会的責任やエコロジカルな活動が求められているのも、こういう欲の暴走が起こらないようになのだろう。
果たして、その企業の活動はどこまで自我が捨てきれた行動なのだろうか。ただ単にお金を寄付すればいいというのであれば、それは全く別物。
精神論になってしまうが、やはり気持ちがないと、企業としての社会的責任が問われることになるんだろう。
個人から企業に至るまで、仏教の精神はとても勉強になる。
自分は、無宗教ではあるが、やはり日本人として仏教の考えがしっくりくるような気がする。
スマナサーラ氏の言葉には、気づかされることが多い。
ビジネス一辺倒ではなく、こういうものにも、たまには触れることも必要だ。